敬老の日に寄せて

新潟に住む私の96歳の祖父、義衛おじいちゃんが話してくれた戦争体験記の一部をご紹介。

※断片的で部分的な場面の羅列です。ご了承ください。

 船舶の兵士だった昭和18年頃、太平洋のどこかの島(もうサイパンだったかもしれない)で、沖を島に向かって逃げていた。珊瑚礁があったので、それを障害物として利用して、珊瑚礁の後ろ側に逃げられると思った。しかし、米兵は大砲で珊瑚礁を破壊して突進してきた。このことが、まず米軍の威力に驚かされた最初の出来事だった。

 船は絶対にまっすぐに進んではいけない。下に潜っている潜水艦に狙われて、進路にドンピシャで魚雷を撃たれてしまうから、ジグザグに進むのが鉄則。しかし、すぐ隣にいた仲間の船が、米軍の潜水艦に撃たれてしまった。そのとき、船舶兵たちが魚雷の威力でみんな吹き飛ばされてしまったのだが、その飛び散り方が印象的だった。吹き飛ばされるとき、腕や脚を目一杯広げて(万歳みたいに)、凧のように見えた。みんなが、まさに大の字で吹き飛ばされていく。何人かではなく全員そろって同じ体勢だったから、人形のように見えて傑作だった。

 サイパン島についたら、中隊ごと米軍に追われた。後ろからどんどん迫ってきて、仲間が自分の背後でどんどん撃たれて死んでいき、中隊長までも自分のすぐ横で殺された。自分はちょこまか弾を避けながら走り回って逃げた。米軍の自動小銃に驚きながら逃げていた。その当時、自分の知っている銃は一発一発狙いをじっくり定めてから撃つタイプのものだけ。しかも一発一発を大切に使えと教わってきて、的当ての訓練もあって、とにかく的確性を重視していた。そして、一発撃ったらカチっとカスを捨てて次の弾を装填していくものだった。だから、後ろから追ってくる米兵の機関銃にはとにかくビックリした。逃げ切った(生き残った)のは、自分の他に2人だけだった。すごく体力があって、米兵も疲れて追いかけるのを諦めたようだった。

 ついにサイパンが落ち、隠れて生活しなければならなくなった。あちこちに米軍のテントがあり、昼はどこかに隠れて、夜に食糧の調達に出かけた。米兵が留守のテントを見つけ、缶詰を盗んで行った。生まれて初めて食べる肉の缶詰がとても美味しくて感激した。

 やがて捕虜として捕まってしまった。米兵にいきなり「Hold on!」と言われた。まずハワイに寄ってからアメリカへ。まず着いたのはOakland。そこ(或はそこから離れたところ)で捕虜の収容所のようなところに入れられた。そこには他の戦地で捕まった捕虜や、Pearl Harborの攻撃で捕まった捕虜とも合流した。収容所は一部屋一部屋が立派だった。捕虜は皆それぞれの部屋に入れられた。とても退屈な毎日だった。たまに米兵が”Exercise!!”と叫ぶと、捕虜たちは運動場に連れ出され、運動させられた。今思えば、運動不足にならないようちゃんと面倒を見てくれてありがたいことだった。タバコも支給された。まだタバコは吸ったことがなかったから、仲間に一服誘われても、火をつけた後はただ煙の筋をじっと見つめていただけだった。

 ある日、捕虜たちは全員、名前と住所を書かされた。自分は正直に本名を書いてしまったが、仲間はみんな偽名を書いていた(やまかわのぼる(山川登)などふざけたものを)。なぜなら、捕虜として捕まることはとても不名誉なことだったから。生きて帰る、しかもprisonerとして、なんて面目丸つぶれで、家族にも恥をかかせてしまうので、それなら死んだ方がマシだった。しかし、うっかり本名を書いてしまった。祖父は「しまった!!」と思い、住所はウソの住所を書いた。でも「長岡市」までは本当で、そのあとの町の名前は、川をはさんだ隣町の名前を書いておいた。

 数日後、一人一人尋問を受けた。それは、以前書いた住所についてだった。米兵の尋問官は日本語の勉強をしていて日本語がペラペラだった。米軍は日本を攻撃するときのために日本の内部を隅々まで調べていた。特に、侵略する際に橋は重要なポイントだった。そして、祖父の尋問の番、机についたら、長岡市の地図を目の前に広げられた。そして以前に書かされた住所(ウソの住所)の町を指差し、日本語で「この橋は木でできていますか?それとも石でできていますか?」と聞かれた。ウソだから当然知るわけもなく、困ってドギマギしていた、と言うより、「ドキー!!!」っとした。あたふたしていたので、全てバレてしまっただろう。しかし、いちばん心に残ったことは、あの戦争の中で、自分のふるさと(長岡)の地図を見せられ、とてもとても懐かしく、嬉しくて涙が出てしまったことだ。それにしても、侵略に際し、その町についてここまで丁重に綿密に調査をするなんて、アメリカはなんというすごい国だろう、こんな国と自分たちは戦争しているなんて信じられない、とんでもない国を相手に俺たちはケンカしているんだなあ、と思った。

 祖父が戦争中に尊敬した人物、それはたしか4文字くらいの「さ」がつく苗字(「さかまき」だったかな?)で、収容所にいた人物。どんなに身分の低い兵士にも、まるで隊長と話すように敬意を払って、怪我人の世話などもよくみて、とにかくしっかりした人だった。その人は米兵からも尊敬・信頼されていて、捕虜との通訳も任されていた。

 海を泳いで逃げているとき。まわりは死体だらけ。なぜ死体は浮き上がるのか、それはなぜだか分からないが、腹が異様に膨れあがっている。

 一番はじめに話した珊瑚礁の場面で、険しい山を登りきったところは崖で、米兵が攻めてきたら身を投げて自殺する者続出。

 人生で最も酔った経験はみんな戦時中。1つ目は、出兵が決まった日。2つ目は、サイパンで仲間とフラフラになるまで飲んだとき。